
「ジャスミンの花の匂いが感じられないのです!」
思いのほか大げさな訴えになった。だが、医師は落ち着いたものだ。「それは大変、診てみましょう」。診断は、慢性の鼻腔炎症による嗅覚障害。なるほど、世界は静かに“無臭化”していたわけである。
ここで、ふと三年前のベトナム旅行を思い出した。屋台の湯気、香草の山、魚醤の気配。あのとき私は、「ベトナム料理は体に合う。ひょっとすると自分のDNAは東南アジア系かもしれない」などと、いささか大胆な仮説を家族に披露した。
ところが返ってきたのは、冷静な一言だった。「お父さん、スパイスが強い料理は苦手でしょう。体の具合が悪かったんじゃないの?」
いま思えば、あれは“味覚の覚醒”ではなく、“嗅覚の後退”の始まりだったのかもしれない。

最近は、食の守備範囲が妙に広がった。以前なら避けていたスパイシーな料理も平気である。しかも厄介なことに、「もう十分」という合図が来ない。いわゆる“アンコールの匂い”が消えたせいで、つい量が増える。これは歓迎すべき進化なのか、それとも単なるセンサーの故障か。
変化はそれだけではない。かつて苦手だった化粧品売り場やエレベーター内の香りも、難なく通過できるようになった。文明社会に適応したと言えば聞こえはいいが、単に嗅覚のフィルターが外れただけとも言える。
とはいえ、不思議なことに「匂いの記憶」は残っている。ジャスミンの花を見れば、その香りを思い出す。懐かしい店の暖簾をくぐれば、あの出汁の匂いが脳内に立ち上がる。つまり私は、現実の匂いを失いながら、記憶の中では自由に嗅いでいる。
だから、食べ物の美味しさも、花の美しさも、郷愁も、大きくは損なわれていない。人間の感覚とは、案外したたかなものだ。

ここで一つ、欲が出てきた。
苦手な匂いだけをうまく遮断し、好きな香りだけを完全に復元できないものか。いわば“選択的嗅覚”。技術的には難しそうだが、発想としては悪くない。
そんなことを考えつつ、私は毎日、花や食べ物や衣服に鼻を近づけている。今日の自分は、どこまで世界を嗅ぎ取れるのか。回復の度合いを測る、小さな実験である。
七十五歳。どうやらこの年齢になると、「いい加減」という言葉の意味が変わってくる。
無理に完全を求めず、欠けたところも含めて引き受ける。その“いい、加減”の中にこそ、充実や満足が潜んでいる。
ジャスミンの香りは、まだ戻らない。
だが、それを惜しむ気持ちごと、どこか悪くないと思っている。
(2026.4.30、治療8日目)