
「日本に帰りたくないんですよね」。
シンガポールに暮らす人から、この言葉を聞くのは一度や二度ではない。
湿度の高さに閉口しながらも、彼らはなぜかこの小さな島を離れたがらない。
不思議に思っていた私だが、ある日ふと気づいた。
1936~1940年に暮らした大叔父一家も、2025年から住んでいる息子一家も、同じようにシンガポールを「恋しいわが街」と呼んでいるのだ。
時代も背景も違うのに、どうして同じ感覚が受け継がれていくのだろう。
その理由のひとつは、この国に流れる“心地よい距離感”にある。
多民族社会のシンガポールでは、誰もが違う背景を持っていることが前提だ。
だからこそ、過度に踏み込まず、しかし必要なときには自然に助け合う。
戦前の英国領シンガポールも、アジアの海を渡る人々が行き交うコスモポリタンな街だった。
大叔母の文集や書簡には、異国の人々と肩を並べて暮らす楽しさが、軽やかな筆致で綴られている。
その空気は、現代の街角にも確かに残っている。
もうひとつの理由は、暮らしの快適さだ。
気候は厳しくても、生活インフラは驚くほど整っている。
治安の良さ、交通の便利さ、行政サービスの効率の良さ。
息子一家が「日本より生活のストレスが少ない」と口をそろえるのも無理はない。
日々の小さな安心が積み重なると、人はその場所に深い愛着を抱くようになる。

そして何より、この国には“世界とつながる開放感”がある。
小さな都市国家でありながら、常に外へ向かって開かれている。
大叔母が見たシンガポールは、海の向こうへ旅立つ人々の玄関口だった。
現代のシンガポールは、世界中の人と情報が行き交うハブ都市だ。
どちらの時代にも共通しているのは、「ここにいれば世界が近い」という感覚だろう。
1936年の街と2026年の街。 建物も人も、もちろん大きく変わった。
それでも、街を歩いていると、ふと同じ風が吹いているように感じる瞬間がある。
大叔母が見上げた空と、息子が見ている空が、どこかでつながっているような気がするのだ。
シンガポールが「恋しいわが街」になる理由は、便利さだけではない。
この街には、時代を超えて人を受け入れ、包み込み、そして前へと送り出す力がある。
だから人は、ここを離れたくなくなるのだろう。

「帰りたくない」という言葉の裏には、単なる居心地のよさではない。
「ここで生きたい。ここなら未来を描ける」――そんな静かな確信があるのだ。
大叔母がよく歌ったという1936年の流行曲に「私の青空 My blue Heaven」がある。
夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日が暮れて辿るは 我が家の細道
狭いながらも 楽しい我が家
愛の火影のさすところ
恋しい家こそ 私の青空
そして気づけば、通りすがりの私もまた、この街を離れがたく思い始めている。
(2026.3.19 SGを離れる日)